米国建築家 J.Hモーガンの記憶
J.H モーガン
wire work
ふじさわアートフェス2016 旧モーガン邸「モーガンとの対話」
ふじさわアートフェス2016は、藤沢市内の大鋸旧モーガン邸、藤沢橋藤沢交流館、蔵まえギャラリー、
旧近藤邸の4会場で開催。
1.会場 藤沢市大鋸1122番地 旧モーガン邸
2.会期 2016年10月6日~10月10日まで荒天中止。10時~16時まで
展示作品の概要 旧モーガン邸会場 「モーガンとの対話」インスタレーション
2年前、小田急電車から垣間見えた、鵠沼と海に浮かぶ江の島、強烈な印象でした。それから江の島を見渡せる地を探しましたが、樹木の成長と開発の波にのまれていました。そんなときこのフェスのお誘いがあり、この大鋸の地を愛したJ.H.モーガンさんの調査に入りました。
作品「モーガンとの対話」は、J.H.モーガンが愛した「つる棚」のあった。この場所のアーティストブック・装置・立体作品の空間で、1920年に米国より技術指導のため海外赴任して、生涯を終えたJ.H.モーガンと心の対話を試みて頂ければ幸いです。
2016.10.6 尾関良雄
米国建築家
「J.H.モーガンとの対話」
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1920年、 老境に入った52歳の米国建築技師 J.H.モーガンの海外赴任先は、大衆文化の花咲く大正9年の日本。当時の米国の平均寿命は、55歳。何を考え、どう生きたのか。
STEP1 J.H.モーガンを知る
STEP2. J.H.モーガンの藤沢大鋸の自宅
STEP.3 ご自由にお過ごしください。
無機質な電子ドラム
電子部品が造りだす電子音。それは、極めてDRYで現代的である。
素朴な楽器 カリンバ
文明社会から排出された金属缶を加工して、密林の奥で、つま弾かれていた。
olivetti タイプライター
紙に印字して文書をつくる。この時代の重要な通信手段であった。文字を紙に印字するタイプ音が好きだ。
1868年 西部開拓時代の米国ニューヨーク州生まれ。日本は、江戸から東京に。
20歳になり設計事務所に入り結婚する。その後、都市の急速な発展により建築業界は大忙し。ドラフトマンから実績を重ねて、建築事務所を開設。
平均寿命が55歳の時代、老境に入った51歳での海外赴任。モーガンの第2の人生が始まる。
1920年 モーガン51歳
ビル建設指導のため技師として来日。米国は、大繁栄の20年代突入なのに家族を残し船旅で日本へ。
大森山王の日本家屋に住む。石井たまのさんと出会い。良きパートナーとなる。
1922年
帰国を断念して独立。東京に事務所開設
1923年 関東大震災
1926年 横浜に事務所移転
1926年~1930年
山手111館、根岸競馬場 馬見所、
山手ベーリックホール、など建設。
本項は、「日本を愛した建築家J.H.モーガン」
関東学院大学 教授 水沼淑子著より引用致しました。
エンジニアとしての使命感か。変わりゆく故国への哀情か。変えてしまった自分への惜別か。家具職人の遺伝子が、日本文化に魅かれたのか。渡日の動機は何だろう。
一人暮らしの海外赴任は、戸惑いの連続。石井たまのさんは、オアシスのような存在だったのか。
2年で帰国予定だったが、米国に家族を残し日本で暮ら し始める。狂騒の20年代に入った母国、アメリカ。
そこにはない。何を日本に見つけたのか。
多彩な様式の建築を手掛ける。現存する建物32、教会から競馬場の馬見所まで
老境に入ってからの日本へ海外赴任。早い時期からどこかに、終の住処を探していたかもしれない。
ここ藤沢大鋸の旧モーガン邸。相模台地の南端にあたり、竣工当時は、標高54mの地から一気に藤沢橋、鵠沼までくだり、江の島、富士山が一望された。
1937年 J.H.モーガン 死去
建物は、所有者が変わり、空き家となり荒廃してゆく。
1999年 旧モーガン邸を守る会が発足
詳細は、「ようこそ旧モーガン邸へ」旧モーガン邸を守る会 発行 をご覧ください。
2007年5月 建物は、原因不明の焼失
2016年9月、旧モーガン邸は、復興を待っている。
インタビュー ~ご近所の古老のお話~
子供の頃。この屋敷は、異人さんの館と呼んでいた。
竹藪がないころ、江の島が
もっと見えた。
この屋敷の異人さんから、
お菓子をもらった。